檸檬(れもん)のページ2
梶井基次郎の「檸檬」より
えたいの知れない不吉な魂が私の心を始終圧へつけてゐた。焦燥と云はうか、嫌悪と云はうか――酒を飲んだあとに宿酔があるやうに、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやってくる。それが来たのだ。これはちょつといけなかつた。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また脊を焼くやうな借金などがいけないのではない。いけないのは不吉な魂だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も。どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなつた。蓄音機を聴かせて貰ひにわざわざ出かけて行つても、最初のニ三小節で不意に立ち上がつてしまひたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けてゐた。ー以上冒頭部分。途中大幅省略。「あ、さうださうだ」その時私は の中の檸檬を憶ひ出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試して見たら。
「さうだ」
私にまた先程の軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加へたり、取去つたりした。奇怪な幻想的な城が、その度に赤くなつたり青くなつたりした。―以降省略。
この奇抜な文章にはびっくりしました。我が目を疑うほど。今でも尚そうなのだから、この文学作品が世に出た頃いかにセンセーショナルな作品であったか。批判と賞賛とを同時に浴びたことは記録でも残っていますね。この一冊の本で梶井基次郎は名を残したと言えます。その後、若くして結核で命を落としましたが、今の医学なら彼を救って、さぞたくさんの優れた作品の作家としていまよりもっと著名になっていたでしょう。
丸善の本屋に積みあげられた本がただの色彩の集合に見え、それを物体として積みあげ、壊し、また付加えて、その上に真黄色の檸檬を置く・・・・私は色と色が混ざり合って何かを表現するフランス絵画を連想し、檸檬を置くところは、ピカソの奇抜な発想を即座に連想しました。文学(本の芸術)って音楽や美術と紙一重かもしれないと、何と遅い発見をその時したものです。御茶ノ水の丸善に行って、梶井基次郎の本があるところで一瞬檸檬が置いてないか見てしまったことがあります。本店では実際にあったそうですね。こうしちゃいけないとわかっていながら、やってみたいと思うことってありませんか?フレンチのフルコースの食前酒を一気飲みしてみたいとか・・
本屋で本を積み上げたいと思ったり、檸檬を置いて知らん振りして出て行きたいという発想そのものが、奇想天外、天才でないと想像できない技としか思えません。そのあと小品も読みましたが、『檸檬』の強烈さに比べればそう面白くもなく、読んでいくのが進まなくなります。